NEOのゆとりを楽しむ生活

株式投資、英語学習、グルメ、旅行、愛犬とのシニア生活

3月11日 あの日のこと


2011年3月11日金曜日14:46 東日本大震災


そのとき私はJR東京駅八重洲口向かいのビルの13階事務所で業者相手に電話中でした
相手の男は「あ、ヤバイヤバイ」などと言い始めて、自然と電話を切る雰囲気になりました


しばらく続いた大きな揺れが収まると、事務所内は多少の混乱がありましたが、甚大な被害を知るまでにはまだしばらく時間がかかりました


外へ出ると八重洲口周辺は多くの人がひしめいており、ある1階のカフェはガラスの壁面が崩れ落ちていました


再び事務所に戻り、近しい顧客に電話をかけ安全を確認しましたが次第に電話そのものがつながらなくなりました


夕方になるとJRが動かなくなったためなのか八重洲のタクシー乗り場には長蛇の列で、「今日は泊まりになるかも知れない」などと未だ悠長に考えていましたが、地震による被害の詳細についてはまだ入って来てなかったのです


歩いて茅場町か門前仲町近くまで行き夕食を済ませると、また会社の方向へ歩きながら泊まれるホテルを物色するも既にどこも満室で空きがありません
このときで20時くらいだったでしょうか


会社に戻り電車が復旧するのを待ちました


22時頃になって東西線が動き始めたのを知り東陽町止まりでしたが乗車、東陽町の駅を出ると運よくタクシーを捕まえることができました


高1だった娘が学校から帰宅中の電車の中で被災、途中の駅で下ろされていたので合流するために待機していた小岩のコンビニへそのままタクシーで向かいました


娘と合流できたのは深夜2時頃


そして、こちらへ自家用車で向かっている妻と海浜幕張駅で合流できたのは朝の5時半頃でした


タクシー代は23,000円程度だったのを覚えています
いつもなら1時間で10,000円程度のところ7時間も乗っていたのに運転手さんもさぞお疲れだったでしょう


降りた駅前のアスファルトの道路が液状化の影響で大きく波を打って変形していたのを覚えています


地震の翌日は土曜日でした


私は睡眠もとらずに自家用車で、顧客や衛星店舗等を回り被害状況の確認をしました


しかし、各地の被害状況、ガソリン不足、計画停電等本当の混乱はしばらく続いたのです


私は、この日以降毎年ある寺の鐘楼堂において、10年間休まずに地震のあった定時刻に焼香のうえ般若心経等を唱えてきました


地震日の記憶は人それぞれです


でも何ら落ち度もなかった人たちが命を落とし、今でもつらい記憶に苛まされています
私たちはあの日のことを決して忘れてはいけないのです

×

非ログインユーザーとして返信する