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仕事に明け暮れた20代の私(7)スキー天国

転籍した会社の倉庫内作業という視野の狭い仕事とはいえ、ひとりの若者が真面目に没頭して取り組んでいました


新会社設立当初(1986年)は、社員は寄せ集めでしたが、仕事上の混乱に追われる状況もあり皆それなりに軋轢もなく上手くやっていたと思います


2年目以降になると仕事も落ち着いてきてお互いを知るようになると、自然と派閥的なものが発生するようになりました
更に高卒、大卒等の新入社員が入ってくるといくつか大小の群れができた一方で、古手の社員は孤高派が多かったように思います


私はこの時期は、とにかく真面目に仕事に邁進したつもりでいましたが、改めて思い出すと同僚らと一緒に旅行に出かけたりするなどプライベートも結構充実させていたように思います


当時は車で移動することが多かったのですが、どこへ行くにも道路渋滞は当たり前でした
バブル期の日本社会の活気と当時の道路事情が要因だったと思います



冬の時期の旅行と言えばスキーにはよく行きました
金曜日もしくは土曜日に仕事を終えて一度帰宅して支度するとまた会社に集まり、1台(もしくは数台)に同乗し向かうのでした


スキー場は首都圏からアクセスの良い新潟県湯沢町が圧倒的に多く、たまに群馬県水上町や沼田市に行くこともありました


当時は練馬ICからの関越自動車道が、対面通行の関越トンネルが開通したばかりの頃で、新潟県が一気に近付いた時期でした
それはスキー人口を後押ししましたが、それは同時に週末夜の交通渋滞を誘発するものでもありました


当時は外環道はなく、首都高と関越道は接続されていません
首都高は首都低速と揶揄されたほど万年渋滞で、なんとか時間をずらすもやはり渋滞は変わらず、深夜に首都高5号北池袋線から高島平を下りて関越練馬ICに至るまでの疲労や睡魔と闘う苦行は今でも忘れられません


当時はスタッドレスなんて無かったものですから、水上PAで凍える手に息を吹きかけながら慣れないスチールチェーンを時間をかけて後輪に巻いたものです


深夜から朝方にかけてスキー場の駐車場に到着し車内で仮眠をとりながら、リフトの稼動を待ちました
そして午前中たっぷりと(実際にはリフト待ちで混むことが多かったのですが)、ユーミンやレベッカの曲が流れるゲレンデを滑り、日帰りの場合は帰りの渋滞を気にして昼過ぎには帰り支度を始めることが多かったと思います


一泊で彼女(今の妻)と山形蔵王、白馬八方尾根、苗場にも行きました
娘が生まれてからも一緒に、草津や日光湯元、ガーラ湯沢、野沢温泉等に行ってます
普段倉庫で働き、夜はキックのジムや総合運動場でロードワークをしていましたから足腰が強く、性に合っていたんでしょうね


会社の若い社員とは、盛岡や龍泉洞まで車で旅行をしたこともあります





外環道も圏央道もなく高速を使って地方に行くには都心を経由しなければならないという道路インフラが今よりもはるかに劣っていた時代でしたが、社会の活気は今よりもあり、男女雇用均等法の施行も相まって男も女も未来への夢があった時代でした


東京ドームができてこけら落としにマイクタイソンが来日して試合、ニューヨークの貿易センタービルや世界の名画が日本企業に買われた時代


株価や地価はますます上がり、社会の空気が浮き足立ち、徐々にほころびが見え始めたのもこの頃です


猟奇的な事件、凶悪な事件もおこりました
オウム真理教による事件や女子高生コンクリート詰め事件はこの頃でした
中森明菜さんの自殺未遂騒動もこの頃のことです


今思うと、バブルのピーク1989年から1990年頃に入社した新卒、特に大卒の新入社員は酷いのばかりでした
就活するなかでたっぷりと甘やかされてきたのでしょう、態度も目つきも悪く若者らしい謙虚さもありませんでした


仕事をやらせればなんてこともない、特に根気がなく仕事を舐めているのがすぐ分かりましたが、特に接点もなくイラっとすることもなかったのですが、あとからこれがバブル採用組だと思い知ったものです


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