NEOのゆとりを楽しむ生活

株式投資、英語学習、グルメ、旅行、愛犬とのシニア生活

怪我が多かった私の少年時代(2)

小学校に上がってからは、一つ上の兄と一緒に隣町の小学校までバスで通うようになった
幸いバス停は家のすぐ近くにあり小学校の近くのバス停まで3つ目、子供料金は10円だった気がする(乗るときはいつも10円を握りしめていた)
小1のときの私は並ばせ係で成績はオール3の取り柄のない子だったが、足だけは速かった


家の近所に新しい小学校ができて小2から通うようになったためバス通学ではなくなった
私たちが住んでいたのは新興住宅地で家の周りには空地も多く、学校での友達はまだその地域は住み始めて間もない人たちばかりだった


家は2DKの市営住他で結局高校を出るまで自分の部屋というものを持ったことも無く、これは若いうちは自身のトラウマで、小学校時代から既に家の間取り図を書くのは趣味の少年だった(生まれ変わったら建築士になりたい)


学校の友達は土地付き一戸建てに住む人も多く、とりわけ当時、もう50年も前の話だが、土地の広さは70~100坪が当たり前だったので、駅近ではないにしても比較的裕福な人たちが住んでいたのではないか?
うちは公営住宅、と思い僻むようなことはなかったが・・・

そんな小学校の2年生のとき、濡れたモップで掃除した後の廊下で走って滑って後頭部をゴツン!
目の前に星が現れたことがあった
病院に行くようなことはなかったが、以来(若いときだが)片頭痛がたまに出るようになる
なぜ昔の学校のリノリウムの廊下は滑りやすかったのだろうか?


小学校3年生くらいのときのことだ、近所の子と公園で遊んでいて、ふざけて大きな石を砂場に投げて遊んでいた
あるとき投げた石を取りに行ったところにその友達が投げた大きな石(10センチくらいの塊)が私の頭のてっぺんに落ちてきたのだ


当然、私の頭は切れ血がたくさん流れ始めた
親のところに行くと車ですぐ救急病院へ、麻酔の注射をして数針縫った
数針縫ったときより麻酔の注射で泣いてしまったので、「麻酔の注射の方が痛かったみたいでした」と親に看護婦が話している声が聞こえた
友達の親は私の親に平謝り
でも、あれは飛び出した私も悪かったのだ


小学校時代の私はいつも運動会のリレーの選手だった
小6ではアンカーを務めた
低学年ではボーっとしていた私も高学年になると読書に目覚め、親に本をねだるようになっていった
(続く)

怪我が多かった私の少年時代(1)

先日肩痛のリハビリで整形外科付属のリハビリ施設へ行った際に、過去の病歴や怪我などについて色々と聞かれた
今現在の痛みや病気について過去の事例を参考にこれからのリハビリ計画を立てていくというのは理解できる
数十年の時を経て、過去の病気や怪我が今の痛みに直接、間接にどれだけ影響があるのか判断するのは至難の業だと思うが、参考程度にはなるかも知れない


それで思い出したのだが、私の少年時代はとにかく怪我が多かった


小さいときはよく手首の関節が外れた(どこかへ家族で出かけようとしたら手首の関節が外れて出掛けられなくなったと母が嘆いたのを思い出す)、関節が外れても痛みはなく、ただ医師などに連れて行かないといけなかったのだと思うが、その前後の記憶はない


3歳くらいのとき一つ上の兄が観音開きの大箪笥の扉の上部につかまって開閉遊びをしていて、マネして自分もやってみたら手の指を挟み爪が丸ごとはがれた(今も大泣きしたのを覚えているが、親が不在だったのに爪がはがれるような怪我をして大丈夫だったのだろうか?帰宅した父親が箪笥扉の上部を触りながら「ここではがれたんだ」と話した記憶はある

同じく3歳くらいのとき近所の空き地でよく友達と遊んだものだが、あるとき釘の飛び出た建築の廃材を踏み付け、足の裏に突き刺してしまったことがある(この時も大泣き)


4歳のとき道を歩いていて後ろから来た車に轢かれ、しばらく入院したのを思い出す
今も鼻にその時の傷が残っている
道端から道路の真ん中の方へ急に私が飛び出してしまったものだから運転手も防ぎようがなかったと思う
後から聞くと、運転手はやくざ者で家ではライオンを飼っていて最後まで見舞いには来なかったそうだ(奥さんは来ていたらしい)
病室で母親の背中におんぶされバナナを食べた思い出がある(1回目の救急車と入院)


小学校に入る前、やっと買ってもらった自転車
兄や友達が自転車を乗り回して遊んでいたが6歳の私にはまだ自転車が無かったのだ
楽しそうなみんなの姿を見て悔しくて泣いている姿を見て親がついに買ってくれたのだ
乗っちゃ転び乗っちゃ転びしながらようやく一人乗りできるようになると楽しい移動手段となった
あるとき猛スピードで下り坂を走り、見通しの悪い交差点をそのまま通り過ぎようとしたら運悪く右方向から乗用車がやってきてぶつかり跳ね飛ばされてしまった
私は大泣きしていたが「急に出て来たもんだから・・・」と言う運転手の声は今でも耳に残っている
この時はその運転手が外科まで連れて行ってくれたんだが、手足の擦り傷でおさまったようだ


幼年時代の記憶に刷り込まれているのは、「なんとかしなきゃ(まずいことになる)」という原記憶である
これが胎教なのかどうかはわからないが、いつもそんな焦燥感に支配されていたような気がするのだ
(続く)

新NISAと株式市場の行方

インデックスファンドと日本の個別株を持ち続けており、比率的には3:5程度になる
来年から始まる新NISAにはオルカン1本で行くと思う
オルカンが信託報酬を下げるまではslimS&P500も検討していたが今や(これからは)オルカン1本で決まりだな
ちなみに、ノムカンもトレカンも検討外


娘は楽天証券なんだが楽天銀行に口座を作るよう指示
来年より毎年110万円暦年贈与し(都度契約書を作る)、毎月オルカンを10万買わせる
15年継続しての贈与はかなり長丁場だが、贈与税を取られず新NISA枠の1800万を埋めるにはこの手がベストかなと(一人娘だからできること)


私と妻は全力で毎年360万オルカンを買うかは検討中(そこまでやる必要があるかどうか)


ところで株式市場の動向なんだが、円安(148円/$程度)によってインデックスファンドは概ね好調
個別株も銀行、商社、海運、鉄鋼等バリュー株(高配当株)が主体のため大きくプラスを維持している(もっともこの1週間で数百万減らしているが)


簡単に円高にはならないだろう
今の140円程度のレートがしばらく続くのではないかと見ている


このところ日経平均はTOPIXに劣後しているが(それがマイポートフォーリオが良い理由)来年央には 日経平均はバブル時高値を更新すると見る


ネットで見ると「もう下がる」だの「危ない」だのいう人もいるが、そうした相場観もポジショントークでよくよく読んでみると、昨年(または1昨年)ほぼ売ってしまってポジションが軽くなっているとか、信用で売りを持っているとかていう人が多くて笑ってしまう

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オンライン英会話を続ける

モノになるかどうか知らんが英語学習を10年続けている


当初は中3レベルのテキストをCDを流しながら合わせて1000回音読

次にDUO3.0の読み込み(今も使用中)

公文式英語を最終教材まで3回学習

ここに出てきた単語や熟語をまとめたノートが12冊

オンライン英会話(DMM)を始めて1年半


海外で働いたり留学して背中を押されて英語生活をするのがベストなんだが皆がそんな環境を得られるわけではない

日本国内でチマチマと勉強しても常に挫折の連続だ


オンライン英会話は1年半ほぼ休みなく続けていて、すでにレッスン時間は15000分(時間ではなく分)近いが、言いたいことを話すのは難しいし、聞くのは話すこと以上に難しく感じる


ただ将来は(できればガイド抜きで)不自由なく海外を回りたいので、続けていきたい

記憶をなくした居酒屋へ また行く

私は食事のとき必ずスマホで料理写真を撮っている
写真データに紐づけられた時間やGPS情報でいつどこで何を食ったか(飲んだか)が分かる
Suicaは今年からスマホを利用しているので利用履歴が残る
最近は店での支払いもVisa(もしくはPayPay)のスマホ決済で済ませることが多く、これも履歴がしっかりと残る


食って飲んで、しっかり記録している(食べログにも写真アップ)


昨夜は一昨日記憶をなくした居酒屋に再び参上した
電話したら4人入れるというので予約して行ってみると、偶然たまたま4人テーブルだけ空いていたのだ


さすが4人で飲食すると昭和のBGMより目の前の会話であっという間に時間が過ぎる
そして美酒とうまい料理の数々


娘は酒を飲むが娘の旦那は飲まない(飲めない)
電車でやって来るといつも居酒屋へ行こうという流れになるのだ(私の希望と趣味)
本人たちはファミレスでもいいのだろうが・・・


おっと、娘夫婦の二人に小遣いをそれぞれ10,000円ずつやることも忘れない
これで次回また来たいというモチベーションとなる(笑)