NEOのゆとりを楽しむ生活

株式投資、英語学習、グルメ、旅行、愛犬とのシニア生活

世に倦む日々だったころ


私が会社員を辞めたのは49歳1か月のときでした



その2年ほど前に経営の悪化した証券会社を解体して、時のブームに便乗して太陽光発電とリフォームの会社を新しく作ったのですが、経営者がダメだと何をやってもダメの典型でした


経営能力のない経営者のもとでは何をやってもダメなわけで、社員は大変な気苦労を背負わされていたということです


この頃の私は、景気の良し悪しに左右されない公務員らを妬ましく思ったものでした


当時の私は新自由主義成果主義の会社でやってきたため、信賞必罰優勝劣敗数字は人格等の思想が身に染み付いており、良くも悪くも自己責任なのだから頑張るしかないといつも自分に言い聞かせていた反面、長く続く気の滅入るような状況に自分が壊れていくのではないかという気分になることもしばしばでした


会社は上場会社でしたが、株式上場時には私は大いに貢献しましたが、無能経営者は社員を犠牲にしながら、最後にはMBOで上場廃止にして自らの保身を図りました




私は社内では営業で、今までの金融営業と違い全く畑違いの慣れない請負営業であったけど、第2種電気工事士インテリアコーディネーターの資格も短期間で取得し、得意の営業力で新規顧客開拓に奔走していました


特に、東日本大震災の直後から太陽光発電の引き合いが凄まじく、東は千葉県九十九里の岬町から西は東京都八王子市に至るまで、半年間で50件も売り歩いたものです


今思えば、私は良客に恵まれ、人間的にも経済的にも良質な顧客が多かったと思います


しかし、それでも会社は何故か赤字で人員削減の空気が非常に強く、それが私にとって大変なストレスでありました


東日本大震災のあった年の年末、すでに冬休みに入ってましたが私は休みを返上して顧客と契約を交わし、翌日その契約書を渡しながら社長と話したのを覚えています


私が辞めたのは自主的な判断でしたが、会社と交渉して「会社都合」という形にしてもらいました




無計画に会社を辞めたことで将来の生活に不安を覚えながらも、早々に失業手当の手続きをしたことで経済生活復活の些細な糧にすることができたのは良かったと思います


その後、失業保険の給付を受けながらハローワークの勧める職業訓練校に通いました


証券会社をリストラされた際、将来に備えて日商簿記2級は取得済みでしたが、このときは将来の起業も見据えて、また復習も兼ねて簿記の講座を選びました


生徒は10名程度でしたが、実際に簿記FP等の資格を有するのは私ひとりだけでした



またこの頃並行して大型2種免許を取りに自動車学校へも通いました


45万円ほどもかかり当時の私にとってはあまりに大きく痛い出費でしたが、無職という聞き心地の悪い耐え難い響きから逃げるためには、自分のスケジュールを埋める必要があったのです


予定を埋めることで精神的に潰れそうになるのを上手く避けることができました
人は落ち込まないためにはヒマにならない工夫が必要なのです



もっともこの頃は、次に(仕事を)何にしようか具体的かつ明確なものがなく、かと言ってゆっくりするなどという余裕などあろうはずもなく、心の中は焦燥で溢れていました


また、ひとり娘は高校3年で1年後には大学受験(理系)を控えており、金銭的にも精神的にも難しい時期でした


結果的には現役で筑波大学に合格してくれたのは有難かったのですが、入学とともに自宅を離れ、その後大学院を出るまでの6年間で学費、住居費、生活費、国民年金等で200万×6年で総額1,200万以上のお金がかかることになりました


しかし当時は数年も先のことを考える余裕などなく、どうやって今年乗り切るかというだけで精いっぱいでした



年金受給のことを書こうと思ってましたが、過去を思い出した途端色々な記憶がよみがえってしまいました

×

非ログインユーザーとして返信する