ブログとの付き合い方
ブログを書き始めて1年が過ぎましたが、目的は自分との対話であって他人の共感を得ることが主目的ではありませんでした
しかし、続けるうちに賛否はともかく関心を持ってもらえることに有難いと思えるようになり、気付くといつの間にか多くの「nice!」が付くとそれを嬉しく感じるようになってしまったのです
そしてnice欲しさに「nice!」や「nice!返し」をしたり、ちょっと邪(よこしま)な気持ちから記事に賛同しなくてもnice!を押したり、記事を読まずにnice!を押したり、と・・・なんだか変ですね
そもそも50件100件niceが付いたとして、付けてくれた人の最新ブログ記事すべてに目を通すのはかなり困難なことじゃないでしょうか?
多数の記事の中には、ご本人の日記調の内容のもの、ちょっと専門チックで重いもの、思想的にどちらかに寄ったもの、説教めいた話や自慢話のような読むのも面倒臭いもの、単純に改行が少なくて読み辛いもの等色々ありますね
私は、個人ブログなのだからどんな内容だろうと構わないし個人の自由だと思っています
実際、愚痴や悪口等ネガティブな内容を書いたものでも私的に共感することもあります
ただ共感するときは私の目線というフィルターを通じて共感をしているので、発信者と全く同じ感性でいるかと言えば、違うことも多いのではないでしょうか?
そういう意味で、書き手と読み手が違う感性だろうと気にせず、自らの目線で共感できるかできないかということだけが肝要ということで良いのではないかと思います
しかし、逆に言えば書き手は自分の思いを綴る自由があるのに対して、読み手はそれに敬意を持つ必要があると、私は考えます
何故なら、書き手は読み手と違う人格だし違う世界、違う生活習慣で生きています
あなたは私ではないし、私はあなたとは違う
また、私の家庭はあなたの家庭とは違うので、あなたの家庭の価値観を持ってこられても困るのです
私が自分の価値観で書いたものを読み手のあなたが自分の価値観や世界観で共感するまでは良いのですが、自分の価値観という尺度で捉えて批判してくるとなれば話は違ってきます
身勝手な「正義感」や偏った「自己主張」、嫉妬心や悪意で曲解するのはいかがなものか?
もし自分の価値観や世界観を主張したいのであれば自分のブログに書けば良いだけです
かつて海外から発信されるある日本人の方のブログを習慣的に読んでいたことがあったのですが、そのコメント欄がある意味ひどい
一言でいえば、他人の軒下を借りて好き放題している、とでも言うのでしょうか
しかも書いているのが高齢の男女
本ブログのテーマを外れて何故か自分自身の日常を好き放題書き込んでいる
まるで老人サロンです
そして気に入らない意見やコメントに対しては書くのも憚れるような言葉でリプを付ける
まさに怪獣、珍獣、猛獣の部屋です
70代と思われる婆さんが口汚い言葉でコメントを書き込むのですから世も末です
私はそんな人たちにウンザリしてそのブログを訪れることはなくなりました
以前は私のブログにも変なヤツが現れました
ここまでくるとさすがに悪質な犯罪予備軍です
私はどんなヤツなのか興味があったので、運営サイドに発信者情報開示請求をしましたが、結論から言えばこの件に関し運営は明確な対応をせず、ただ一般論として「優しい言葉を使いましょう」のように不特定多数に対して啓蒙することでお茶を濁しました
(それ以上こちらも追って対応はしませんでしたが)
ブログを書くにはそれぞれに色々な思いがあるからだろうな、と思います
そして、私は書き手に対する配慮と敬意から、自己の意に反する「nice!」はしない方が正しいのでは?と考えるようになりました
(「読んだよ」という意味での「nice!」は分かる気がします)
また、「nice!返し」目当てに、ちゃんと読まずに「nice!」を付けるのは更に失礼なことだと感じるようになりました
私的には、他者のブログを読むにあたり、自分なりにきちんと咀嚼してnice!したいと考えています
ですから、伺える頻度も少なくなると思います
さて、ネット上のコミュニティでは主観的な目線で相手を捉える傾向が一段と強まり、良くも悪くも勘違いや誤解が数多く存在する気がします
ですから「nice!」という形そのものには一定の評価軸があるような気もしますが、それ自体に重きを置きすぎて形だけに捕らわれ過ぎるとブログそのものが苦役と化し本末転倒となりかねない
人は人、自分は自分という原点に戻り肩の力を抜いて徒然なるままに付き合っていくのが良いのではないでしょうか?