夜逃げした結婚式の仲人
私たち夫婦が結婚したのは1991年(平成3年)のことだ
バブルの最末期で株価は既に頂点を極め、中東では多国籍軍がペルシャ湾を取り囲む危機を経て湾岸戦争が勃発した年だった
私が社会人になったのはそれより数年も前の話で、G5(当時)によるドル安を容認するプラザ合意によって円高が加速し「円高不況」と呼ばれた頃だった
「米国の双子の赤字」、「日米貿易摩擦」、「ジャパンバッシング」なる言葉がテレビやラジオで流される日々だった
その後日本は円高不況を乗り越えてバブル景気へと邁進していく
バブル時代の私はまだ20代の若僧で、何かと世の中は騒がしい、会社は儲かっているみたいだという感触はあったが、個人的にはバブルの恩恵などあるはずもない
当時は土曜日は普通に出勤日だったし、休みは日曜祝日のみ
毎日忙しく深夜まで残業して日曜祝日も忙しく出勤させられて、ひと月の残業時間が170時間を超えたこともある
(手取りの給料が残業代を含めて27万もあると喜んだ無邪気な私がいた)
「24時間働けますか?」なんて言葉がCMに流れ、気の良い私は時の上司にも乗せられ、楽しく嬉々として会社に通いつめ、極めて安い給料で奴隷のように働かされた
繰り返すがバブルの恩恵など微塵も無かった
働く現場としては、毎日かなり忙しく、自動車部品の倉庫の管理をしていたため、言ってみれば肉体労働で日々2万~3万歩も歩くハードな仕事生活であった
更に、1985年の男女雇用機会均等法の成立により社内外で女性が相対的に強くなり、地味な女性よりも自己主張の強い派手な女性が際立つようになってきた
マハラジャやジュリアナが流行ったのもこの頃だ
後に結婚式の仲人を依頼することになったWさんと知り合ったのは、バブル景気を迎える少し前だった
当時、私は自動車部品のルートセールスをしていて、Wさんはその配達先の中古車屋で修理工として働いていた
私より年上で、ざっくばらんで愛嬌もあり、商品を届けるといつも気やすく声をかけてくれた
バブル景気を迎えて世の中の経済状況が上向くと、Wさんは脱サラして自ら中古車業を始めた
社名は本人が好きだったアメリカのTVドラマのタイトルをそのまま付けた
当時私のいた会社の中にも会社を辞めて中古車会社を立ち上げる人が他にもいたので、うまくやれば儲かる業種だったのだろう
業績は良かったようだ
たまに私は遊びに顔を出していたが、綺麗な受付のお姉さんがいて、仕事も上手く回しているなあという印象だった
あるとき、飲みに行こうということになって付いていくと、スポーツクラブの支配人のような人も合流し、浦安、行徳あたりの女の子のいる店(パブ)を何軒かハシゴした
そして支払うときに目にしたのが、上着の内ポケットから札束を出し払っていた光景だ(まさにザ・バブル)
若造の私はとても驚いた
1989年大納会、日経平均株価は最高値を更新したが、これが天井だと信じる者はいなかった
(若造の私には株など無縁の世界だったが・・・)
この年は日本にとっても世界にとっても変化の年であった
昭和天皇が崩御され元号は平成になり、消費税がスタートし参議院では自民が大敗しておたかさんが「山が動いた」などとうそぶき、美空ひばりさんが亡くなった
世界ではベルリンの壁が壊され冷戦終結、中国では天安門事件が起こった
翌1990年になり、先行指標である株価が前年高値を回復せずとも、日本社会はまだ浮かれていた
人手不足の企業はリクルートの学生らを歓待し、一線を越えてご馳走したり金を渡したりしたものだから、増長して入社したこの頃の社員連中にロクなのはいない
そして1991年を迎え日本経済の足取りは少しずつ変調していくが、浮かれた人たちに本質を見極める術などない
なぜなら日本はジャパン・アズ・ナンバーワンなのだ
そしてこの年、私はWさんに仲人を依頼し1991年3月につつがなく結婚式をあげた
しかし、私たちの結婚式披露宴をサポートしてくれたWさんにとっての仕事生活の終焉、迫りくる足音にすら本人自身も気付いていなかったのだ
それから数か月後
私は社内の異動で特販部品の営業となり、当時出回り始めたポケベルを持って外回りをする日々だったが、その頃からWさんからたびたび連絡が入るようになった
「何にでも使えるカードがあるんだが買わないか?100万でOK!」といかにも胡散臭い
その後も繰り返し連絡が入り、「金を貸して欲しい」「いくら動かせる?」などとしつこい
仲人をしてくれた人でなければ無視するところ、思案して「10万なら」と伝えたところ、すぐに食いついてきた
「じゃ、今すぐ〇〇に来てくれ!30分で来れるだろ!」と一方的に言われて、しかたなく金を持って現場に行くとWさんは既に待っていた
そして金を渡すと、ものの数分でWさんはその場を離れ行ってしまった
以来、仲人Wさんとは会っていない
もう30年以上になるが、連絡もなく今に至る
住んでた家には一度様子を見に行ったが、誰も住んでいないようだった
お金は渡そうと思った時点で既に諦めていたが、仲人までしてくれた人が誰彼構わずターゲットにして奔走し、最後は行方をくらましてしまったという状況に、何だかひどく寂しいものを感じる
当時は金利も高く、ヤバい金に手を付けて逃げ回っていたのかも知れないが、貧すれば鈍するとはこのことで、Wさんは今頃どこで何をしているのだろうか?
生きているのなら「あの時は申し訳ないことをした」くらい言えばいいのに・・・
などと思ったりするが、そもそもそんな善人だったら金を持ち逃げしたりはしなかっただろう