少年時代の思い出(7)暗黒時代
公立の進学校に入学した私は、しばらくすると運動系の部活に入部することにした
今から50年近く前のこと、そのころの運動部といえば酷いものだった
しごき、いじめ、暴力的指導、長時間指導、根性論、炎天下での練習、練習中の水は厳禁等々
今の時代からしたらとんでもないことが日常的に行われていたわけだ
全ての答えは「根性論」に行きつく
さすが昭和時代の悪しき風潮
しかし、時代背景もあると思うが、結局は監督やコーチ、諸先輩らの人間性によるものが大きかったのではと今は考えている
(進学校ではあったが前年まで学校群制度が敷かれていて普通にワルもいたし、しょうもないヤツも大勢いた)
毎日、激しい練習を課され帰宅をすると身体はクタクタになりとても勉強どころではなかった
手を抜けばよかったのだが、いつも一生懸命な新入部員にそんな知恵は浮かばなかったのだ
6月の試合中に右手の甲の骨を骨折した
骨折は生まれて初めてで、折れたその瞬間から激痛が走り、油汗が大量に流れる
それが骨折と知らずずっと試合を継続したが右手はグローブのように腫れていた
数時間後帰宅してから接骨院に行ったがものの見事にぽっきりと折れていて全治45日と言われた
(そんな怪我を負っても試合を止めない指導者ってなんなんだろうね?)
ギブスで前腕は固められ首から吊り下げられた状態だったが、練習は出来なくても部活への参加は求められた
一番困ったのは鉛筆も握れなくなったことだ
当然成績は見る見るうちに下がり1学期の期末試験は散々な結果となった
これはマズいと思いつつも部活はやめさせてもらえず、ギブスが外れてから練習に再び参加することになった
しばらくすると今度は腰を痛めた(病院では腰椎間板症と診断された)
練習後の補強運動でスクワットをするのだが、疲れて体を曲げたまま屈伸をするのは腰を痛めると今では分かるが、当時それを教える指導者は誰もいなかった
結果、部員に故障者が続出したが、部活を辞めることは許されなかった
今からすると考えられないような話だが、気性がまっすぐだった私はだんだん取り込まれていくようになる
しばらく休んだ後で復帰したが、もうほとんど学業が手につかない状態となっていた
高2となり修学旅行は京都・奈良だったが、日頃の疲労と張りつめた緊張が祟ったのか旅先で急性胃炎となりホテル内で待機せざるを得なかったこともある(ツイテない)
さらにその後、高2の晩秋に今度は部活の練習中に鉢合わせとなり転倒し後頭部を強打、救急車で運ばれ2日間昏睡した後2週間入院することとなった
診断名は脳挫傷
当時の強烈な指導の結果起きた事故だった
ちなみにこのとき右目を強打したことで視力が大きく低下
その後いろいろな場面で苦労を味わうことになる
今も右目の視力が弱く困ることがある
人間が激しい運動を2時間、3時間継続しておこなったとき、ある時点を超えるとぶっ倒れるのではなくて、突如自分の身体が軽くなることがある
疲労を感じず体が宙に浮いたような感覚が訪れるのだ
一種の三昧の境地のようなもので、普段は種々多くのことに感覚が働いているものが、多くの感覚を殺してたった一点のみに集中したような状態になり、ある意味で言えば非常に無防備な状態だと言える
そんな状態で起こった事故だった
幸い後遺症もなく2週間後に無事に退院することができたが、私の気持ちはとっくに冷めており、退部して本来の自分を取り戻すよう努めることにした
私の暗黒時代のひとつがこの頃である
楽しい青春時代ではなかった
気付けば私は他の同級生らとは違う面をずっと走っていたように思う
しかし、本来の自分を取り戻すにはその後長い時間を要することになった
後日談になるが、指導の先生だった監督は私が退院した後の冬休みに、深夜酒を飲んで酔っ払い横断歩道のない国道を渡ろうとして車にはねられて死亡した(享年30歳)
教師だったので自宅葬をした公団住宅の上層階には数多くの生徒らが弔問に訪れたが、焼香の順番を待つ間「〇〇先生は調子に乗りすぎたんだよ」という声が漏れ聞こえてきた
確かに厳しい指導で対外試合の成績は悪くはなかったけれど、学校内での他の先生からの評判はあまり良くなかったと思う(実際に毛嫌いする他の先生も数多くいた)
あれは行き過ぎた指導に対する相応の結末が与えられたのではないかと、今では私も思っている
指導者の考えひとつで人は幸にも不幸にもなり得ると、改めて思う