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仕事に明け暮れた20代の私(8)営業部へ異動

1989年の大納会で日経平均株価は最高値を更新するも、翌年も翌々年もその高値を更新することはできませんでしたが、日本社会の浮き足立った高揚感は変わりませんでした


日本市場の時価総額は欧米を凌駕し、ジャパンアズナンバーワンなる言葉が飛び交った時代です
真面目に働くのが馬鹿々々しいとマネーゲームに浮かれる者、その陰で原野商法や先物商法、サラ金問題等が数多く発生していた時期だと思います


日本が浮かれている間に世界は激変しましたが、私は相変わらず仕事に埋没するも、私の周囲の環境も大きく変わっていきました




まず1991年7月、私が28歳の時に辞令を受けて営業部へ異動することになりました
23歳で倉庫内作業を命じられて5年目の辞令で営業に回ったわけですが、私は5年間の刑期を終えたような感覚でした


異動になった部署は特販課という新しく作られた部署で2段式駐車装置の販売が目的でした


この年は、青空駐車撲滅のために車庫法が改正され保管場所標章制度が始まった年です
法改正による厳格化で敷地内に車庫を確保しようという機運が高まった時期でした


トヨタ自動車では自動車産業としての責任から、社内に新商品グループを立ち上げこの問題に取り組みはじめたのがきっかけです


更に、愛三工業、極東開発工業、トヨタ車体等の関連メーカーに2段式駐車装置を作らせそれに「トヨタ純正」というブランドの箔を付け、我々のネットワークを使いリテール並びに業務用で販売をしていこうとなったわけです


私にとってこれまで倉庫内作業着だったのがスーツネクタイへと変わりました
この年の3月に結婚して両親と一緒に住んでましたが、家を出て妻と二人でアパート住まいを始めたのもこの時でした
また、妻の実母が62歳で亡くなったのもこの時で、様々な変化があった年でした


辞令を受け、私はすぐ宅地建物取引士(当時は宅地建物取引主任者)の勉強を始めました
会社に指示されたものではなく自主的に取り組み始めたものでした


1991年と言えばまだバブルの余韻残る頃で宅建と言えば超人気資格、9月の試験まで2か月もありませんでしたが、どこへ行くにも参考書を持ち歩き得意の集中力でインプットして初めての受験で一発合格をものにしました



2段式駐車装置にはルーフの取り付けが可能でしたが、それによって工作物なのか建築物なのか法解釈はグレーゾーンでしたが、現在に至るまで建築確認を要するという話を聞きませんので工作物扱いなのでしょう


大御所トヨタが本気で取り組んだこともあって、会社も特に力を入れていたと思います
しかし、新分野になりますから課長一人に私(主任)と社員一人、後から事務として女子が一人追加になりました




今まで知らなかった請負工事の営業も実に新鮮なものでした
施工業者、基礎工事業者や電気工事士らとの付き合い、メーカー担当者らとの付き合いも新鮮でたくさんの刺激を頂きました


トヨタ車体の担当の方には銀座で接待をして頂いたこともあります
愛三工業の担当の方には「社内のホワイトデーのお返しには女性にこういうものを送るんですよ」と言ってたくさんの女性用下着を愛知県の会社に送ったことがありました(大笑)
当時電気工事をして頂いた方とは今も年賀状のやり取りをしています


研修で豊田市に行ったときも多くの刺激を受けてきました
倉庫内で内向きの仕事をするよりもどれだけ視野が広がったでしょうか
若いうちは様々な機会に恵まれる環境は大切だと思います


新分野でしたが、私はスピーディーに順応して業績を上げていきました


しかし、私は数年後にある理由からこの会社に見切りをつけることになったのです

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