NEOのゆとりを楽しむ生活

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犬にも優しい都内の公園巡り(2)

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西郷山公園を離れて次は世田谷区の駒沢オリンピック公園へ向かいました
大勢のランナーが公園内を走っていますが、巨大な公園なので走りがいがありますね


代々木公園に比べると「自然」というよりも「競技施設の集まり」というイメージです


今日は日差しもそれなりにあり暑いくらいですね


エルも疲れたか?


駐車場から公園内を反対側まで歩きMr.FARMERさんで休憩


エルにもおやつと水を



車に戻り、砧公園(きぬたこうえん)へ向かいました
ここまで来ると等々力渓谷にも近い


この公園はファミリー層のための公園というイメージですね


散策しながらセタビカフェさんで昼食
もちろんテラス席で


公園間移動は自動車ですが、公園内の散策で午前中だけで約20,000歩程度の歩行となりました

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犬にも優しい都内の公園巡り(1)

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今日4月8日は花祭り
今日から3日間は花と食とウォーキングの話題を書いてみたい


エルを連れて都内の公園を巡ろうと計画
今年は桜の開花が遅れて桜観賞とはいかないものの自然や街並みは楽しめます


まずは、渋谷区の代々木公園を目指しました
併設の公営駐車場がありますが早めに満車となる可能性もありますので、カフェでモーニングを頂くつもりで朝7時前に到着しました


公園内をゆっくり歩くと、ジョギング、犬連れ、体操(太極拳?)と様々な人たちが既にいますが、とても広い公園なので朝の空気が清々しい



開店(7:00)を待ってL’OMBELICO (ロンベリコ)さんへ
ワンコもOKのテラス席でイタリアンの創作を頂きました




また公園内を歩いて駐車場へ戻り、次は目黒区の西郷山公園



ここも桜の名所ですが、残念ながら開花前のため、西郷山を下りて隣接の菅刈公園を抜けて目黒川


大勢の人たちが川沿いの商店街を歩いていますが残念ながら桜開花には数日早い



また西郷山を登り次へ向かう

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仕事に明け暮れた20代の私(8)営業部へ異動

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1989年の大納会で日経平均株価は最高値を更新するも、翌年も翌々年もその高値を更新することはできませんでしたが、日本社会の浮き足立った高揚感は変わりませんでした


日本市場の時価総額は欧米を凌駕し、ジャパンアズナンバーワンなる言葉が飛び交った時代です
真面目に働くのが馬鹿々々しいとマネーゲームに浮かれる者、その陰で原野商法や先物商法、サラ金問題等が数多く発生していた時期だと思います


日本が浮かれている間に世界は激変しましたが、私は相変わらず仕事に埋没するも、私の周囲の環境も大きく変わっていきました




まず1991年7月、私が28歳の時に辞令を受けて営業部へ異動することになりました
23歳で倉庫内作業を命じられて5年目の辞令で営業に回ったわけですが、私は5年間の刑期を終えたような感覚でした


異動になった部署は特販課という新しく作られた部署で2段式駐車装置の販売が目的でした


この年は、青空駐車撲滅のために車庫法が改正され保管場所標章制度が始まった年です
法改正による厳格化で敷地内に車庫を確保しようという機運が高まった時期でした


トヨタ自動車では自動車産業としての責任から、社内に新商品グループを立ち上げこの問題に取り組みはじめたのがきっかけです


更に、愛三工業、極東開発工業、トヨタ車体等の関連メーカーに2段式駐車装置を作らせそれに「トヨタ純正」というブランドの箔を付け、我々のネットワークを使いリテール並びに業務用で販売をしていこうとなったわけです


私にとってこれまで倉庫内作業着だったのがスーツネクタイへと変わりました
この年の3月に結婚して両親と一緒に住んでましたが、家を出て妻と二人でアパート住まいを始めたのもこの時でした
また、妻の実母が62歳で亡くなったのもこの時で、様々な変化があった年でした


辞令を受け、私はすぐ宅地建物取引士(当時は宅地建物取引主任者)の勉強を始めました
会社に指示されたものではなく自主的に取り組み始めたものでした


1991年と言えばまだバブルの余韻残る頃で宅建と言えば超人気資格、9月の試験まで2か月もありませんでしたが、どこへ行くにも参考書を持ち歩き得意の集中力でインプットして初めての受験で一発合格をものにしました



2段式駐車装置にはルーフの取り付けが可能でしたが、それによって工作物なのか建築物なのか法解釈はグレーゾーンでしたが、現在に至るまで建築確認を要するという話を聞きませんので工作物扱いなのでしょう


大御所トヨタが本気で取り組んだこともあって、会社も特に力を入れていたと思います
しかし、新分野になりますから課長一人に私(主任)と社員一人、後から事務として女子が一人追加になりました




今まで知らなかった請負工事の営業も実に新鮮なものでした
施工業者、基礎工事業者や電気工事士らとの付き合い、メーカー担当者らとの付き合いも新鮮でたくさんの刺激を頂きました


トヨタ車体の担当の方には銀座で接待をして頂いたこともあります
愛三工業の担当の方には「社内のホワイトデーのお返しには女性にこういうものを送るんですよ」と言ってたくさんの女性用下着を愛知県の会社に送ったことがありました(大笑)
当時電気工事をして頂いた方とは今も年賀状のやり取りをしています


研修で豊田市に行ったときも多くの刺激を受けてきました
倉庫内で内向きの仕事をするよりもどれだけ視野が広がったでしょうか
若いうちは様々な機会に恵まれる環境は大切だと思います


新分野でしたが、私はスピーディーに順応して業績を上げていきました


しかし、私は数年後にある理由からこの会社に見切りをつけることになったのです

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仕事に明け暮れた20代の私(7)スキー天国

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転籍した会社の倉庫内作業という視野の狭い仕事とはいえ、ひとりの若者が真面目に没頭して取り組んでいました


新会社設立当初(1986年)は、社員は寄せ集めでしたが、仕事上の混乱に追われる状況もあり皆それなりに軋轢もなく上手くやっていたと思います


2年目以降になると仕事も落ち着いてきてお互いを知るようになると、自然と派閥的なものが発生するようになりました
更に高卒、大卒等の新入社員が入ってくるといくつか大小の群れができた一方で、古手の社員は孤高派が多かったように思います


私はこの時期は、とにかく真面目に仕事に邁進したつもりでいましたが、改めて思い出すと同僚らと一緒に旅行に出かけたりするなどプライベートも結構充実させていたように思います


当時は車で移動することが多かったのですが、どこへ行くにも道路渋滞は当たり前でした
バブル期の日本社会の活気と当時の道路事情が要因だったと思います



冬の時期の旅行と言えばスキーにはよく行きました
金曜日もしくは土曜日に仕事を終えて一度帰宅して支度するとまた会社に集まり、1台(もしくは数台)に同乗し向かうのでした


スキー場は首都圏からアクセスの良い新潟県湯沢町が圧倒的に多く、たまに群馬県水上町や沼田市に行くこともありました


当時は練馬ICからの関越自動車道が、対面通行の関越トンネルが開通したばかりの頃で、新潟県が一気に近付いた時期でした
それはスキー人口を後押ししましたが、それは同時に週末夜の交通渋滞を誘発するものでもありました


当時は外環道はなく、首都高と関越道は接続されていません
首都高は首都低速と揶揄されたほど万年渋滞で、なんとか時間をずらすもやはり渋滞は変わらず、深夜に首都高5号北池袋線から高島平を下りて関越練馬ICに至るまでの疲労や睡魔と闘う苦行は今でも忘れられません


当時はスタッドレスなんて無かったものですから、水上PAで凍える手に息を吹きかけながら慣れないスチールチェーンを時間をかけて後輪に巻いたものです


深夜から朝方にかけてスキー場の駐車場に到着し車内で仮眠をとりながら、リフトの稼動を待ちました
そして午前中たっぷりと(実際にはリフト待ちで混むことが多かったのですが)、ユーミンやレベッカの曲が流れるゲレンデを滑り、日帰りの場合は帰りの渋滞を気にして昼過ぎには帰り支度を始めることが多かったと思います


一泊で彼女(今の妻)と山形蔵王、白馬八方尾根、苗場にも行きました
娘が生まれてからも一緒に、草津や日光湯元、ガーラ湯沢、野沢温泉等に行ってます
普段倉庫で働き、夜はキックのジムや総合運動場でロードワークをしていましたから足腰が強く、性に合っていたんでしょうね


会社の若い社員とは、盛岡や龍泉洞まで車で旅行をしたこともあります





外環道も圏央道もなく高速を使って地方に行くには都心を経由しなければならないという道路インフラが今よりもはるかに劣っていた時代でしたが、社会の活気は今よりもあり、男女雇用均等法の施行も相まって男も女も未来への夢があった時代でした


東京ドームができてこけら落としにマイクタイソンが来日して試合、ニューヨークの貿易センタービルや世界の名画が日本企業に買われた時代


株価や地価はますます上がり、社会の空気が浮き足立ち、徐々にほころびが見え始めたのもこの頃です


猟奇的な事件、凶悪な事件もおこりました
オウム真理教による事件や女子高生コンクリート詰め事件はこの頃でした
中森明菜さんの自殺未遂騒動もこの頃のことです


今思うと、バブルのピーク1989年から1990年頃に入社した新卒、特に大卒の新入社員は酷いのばかりでした
就活するなかでたっぷりと甘やかされてきたのでしょう、態度も目つきも悪く若者らしい謙虚さもありませんでした


仕事をやらせればなんてこともない、特に根気がなく仕事を舐めているのがすぐ分かりましたが、特に接点もなくイラっとすることもなかったのですが、あとからこれがバブル採用組だと思い知ったものです


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仕事に明け暮れた20代の私(6)シャーロック・ホームズ

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23歳で転籍した(させられた)トヨタ系の新会社で商品管理部門に配属され倉庫内で前向きに仕事を続けていた私でした


転籍前の会社では営業で数字を残しながらも営業には配属されなかったのに疑問を感じていましたが、人事なんて所詮はそんなものと諦めていました


1年ほど過ぎてから出庫品を検品する査照マンから、出庫すべき品物が見つからないイレギュラー(現場キャンセル)を調査する担当を命じられました


出庫伝票が切られたのですから現品はあるはずですが、品物(部品)が見つからないのは何らかの理由があります
そうしたイレギュラーがあまりに多かったのですが、適当に調査を済ませず真剣に取り組み始めると再び毎晩深夜まで働くようになりました




「たった一滴の水より、末には太平洋の存在をも類推しうる」とするシャーロック・ホームズ(byコナン・ドイル)の言葉は、不明品調査の解明に私を駆り立てました


機械上あるべき在庫が見つからないのは、入庫時に間違えて他の場所に入れてしまうミスが多かったからですが、なりふり構わず探しても簡単には見つかりません
そこで間違いを起こすには何か法則があるはずだと考え、現品を見つけるたびに細かく集計を取り始めたのでした


そうした作業をたった一人でおこない数か月かかりましたがパターンが見えてきました
そのパターンに基づき標準手本書(調査票)を作り、それに則り探すと効率的に8割もの不明品が見つかるようになったのです


画期的なことでした
会社には改善提案として上申し、また他県の同業他社へ視察に行った際にもこの標準手本書を使用するよう推奨しました



ある時、あるべき外装部品が探しても中々見つからず困り果てましたが、「あらゆる原因をひとつひとつ潰していき、最後に残ったものがたとえどんなに可能性が小さくてもそれが真実だ」とするホームズの言葉を思い出し、発送元のトヨタ自動車へ確認を促すと、極めて異例でしたが間違って未出荷のまま残されていたなんてことがあり、先方担当者に「なぜわかったのか?」と驚かれたことがありました


しかし、実態は恐らくトヨタ自動車本体も出荷ミスはそれなりにあったのではないかという気がします
当時私はトヨタ自動車の出荷ラベルに出荷ミスを誘発する原因があると考え、トヨタ自動車に改善を文書で求めたことがあります


トヨタ自動車担当の反応はあまりに鈍かったのですが、その半年後にトヨタ自動車が私の提案そのものをあたかも盗んだかように流用して使用していることに私は気付きました


強い不信感を持った私は、社内のしかるべき人に頼んで私の創意提案であることを伝えましたが、先方の担当は「当時はまだそこまで考えが至ってなかった」などと人を食ったような釈明をしました
この件については私は今でもトヨタ自動車に強い不信感と不快感をもっています

(当時の詳細な記録を今も持っていますが、ひとのアイデアを盗んで「原価削減」などとはチャンチャラ可笑しいというか片腹痛い)




ところで、倉庫内の在庫が合わなくなる原因のひとつに窃盗があります


あるとき、ある車種の一定の外装品、部品の数が合わないことが判明しました
調べると同一車種の関連箇所という一貫性があるのです


調査を進めると、ある社員が買ったばかりの高級車で事故を起こし、その修理に必要な外装品や部品がその社員によって盗まれたのだということが分かったのでした


盗まれた部品等はあるディーラーの修理工場に持ち込まれていました


少しでも費用を抑えようと安易に盗みを働いたのでしょう
本人は盗みを認めて依願退職となりました


最後の朝礼時に社員全員の前で謝ることを要求され「どうもすみませんでした」と頭を下げたのを鮮明に覚えていますが、窃盗については知らされていない社員が多く「何で謝ったのだろう?」と後から不思議がられていました


色々なことがありました


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