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仕事に明け暮れた20代の私(1)新会社へ転籍


社会人として働き始めた会社は自動車会社(新車担当)でした
ところが自身の意思とは無関係に1年足らずのうちに2度も配属先が変わり、先輩社員が免停となったのをきっかけに自社部品のルートセールスとして外回りをするようになったのでした




商品知識もなくただ行動力で業績を上げていた時期でした


その後、トヨタ自動車と2つの企業グループが新会社を設立し部品部門を統括することになり、私も新会社に転籍することになりました


そのとき私は23歳でした




時代は1986年4月で、プラザ合意による円高不況を経て日本がバブル景気へと向かう頃でした


私は、旧会社ではルート営業で2か月連続営業所売り上げ記録を更新するなど頑張っていましたが、新会社ではなぜか営業部門ではなく商品管理部門へ配属され倉庫の中で働くことを余儀なくされました(私自身の意思など全く無関係に環境は変わっていきました)



しかし、新会社は設立当初から混乱を極めました


ディーラー、修理工場、板金工場、タクシー会社、そして個人客からの注文が予想以上に押し寄せ、対応しきれない現場はカオスと化したのです


さらに新会社は5つの会社の社員の寄せ集めの組織で、指示系統にも一貫性がなく、毎日深夜までの残業で社員がどんどん疲弊化するのが分かりました



私はと言えば、若く初心で純粋で体力もあり、いつも気持ちは爛々しながら会社に通っていたものです




この当時は、土曜日は普通に勤務日で、就業時間は9:00~17:30、残業は18:00~の計算でした


毎晩深夜まで残業して、時には早番で7:30出社、そして日曜出勤もして、時間外労働だけで一か月178時間というときがありました


会社に泊まったことも何度かあります


社員の何人かが愛想を尽かして辞めていきましたが、私は目の前に困難な仕事があれば俄然やる気が沸いてきて、とにかく仕事に熱中したものでした


今思えば、あまりに初心で若者らしい視野の狭さだったと思う
あれだけの労働を放置してたら今の時代なら大問題になるでしょう



しかし時代はバブルへ向かう過程で、会社は儲かっているという話が若手社員の私の耳にも届いていました


安くて品質の良い日本製品は世界の市場を席巻し、莫大な貿易黒字は常に摩擦の対象となりました


日本人の労働時間の多さはたびたび指摘され、「24時間働けますか」などというCMまでが流れますが、男女雇用機会均等法の施行により女性が相対的に強くなり、社会は活気に溢れていたのです


そんな日本社会が元気だった時代に、関東圏の自動車部品の大倉庫の中で、ひとりの若者が埃にまみれながら、でも意気揚々と働いていたのでした

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