世に倦む若き日々の思い出(3)
若い頃、前門の朝鮮女、後門の意地悪婆さんと言う強烈なキャラクターに挟まれ、その他周辺の情緒?あふれる近隣住民に囲まれた環境で生活をしていた
全体的に子育て世代が多かった気がする
朝鮮家族にも小3の男の子と小6の女の子がいたし、意地悪婆さんにも小3の孫の男の子と園児の孫がいた
キッカケは忘れたが、夏休みの時期も相まって私は子供らと仲良くなって遊ぶようになった
小3の男の子や他の近所の少年らを連れてご飯に行ったり、うちに泊めて夜まで遊んだり、近くの空き地に捨て材を使ってテーブルを作り、少年たちに金を渡して買い物に行かせてからバーベキューをやったり、親世代の仲の悪さに関わらず子供たちは仲よく遊び、私は近所の人たちからいつの間にか「お兄さん」と呼ばれるようになっていた
朝鮮家族の小6の女の子には私が持っていた世界文学全集をタダであげたり、私が好きだったベートーベンを聴かせたりもした
あるとき、私が家の庭にいると、その女の子が目の前の道を行ったり来たりしている
どうした?と聞くと、近くのスーパーで万引きをしてしまった、親を呼んで来いと言われた、と言う
家族関係が非常に乱れていた状況で、精神的に屈する状態から万引きなどしたのだろう
親に話したら多分殴られると言うので、実兄に成りすまして一緒に謝りに行ったなんてこともあった
私は、朝鮮家族とも適当に付き合い誘われるまま海へ一緒に行ったこともあるが、意地悪婆さんとも適当に仲良くしていて昼食をご馳走になったりしていた
そのためか分断された地域のまるで救世主のように見られていたかも知れないが、私にそんな考えなどまるでなく、しがらみがなかったので自由にふるまっていたらたまたまそうなってしまっただけだった
あるいは、当時の私は精神的にはとても病んでいたが、世間ずれしたところも計算高いところも泥臭さもなく純粋だったので好感を持たれたのかも知れない
(つまらない人間だったと思うが?)
私は特に子供好きではなかったが、なぜかそのときは近所の子供たちが私の周りにまとわりつき、夏休みが終わっても学校や幼稚園のあとからみを求めて私の家にやって来て、その親たちもそれを奨励していた
しかし、私もアルバイトに精を出すようになり、自然と近所の子供たちとは疎遠となってしまった
しばらくして私は就職して仕事に没頭、数年後引越しをして土地を後にした
今から40年も前の話で、昭和50年代のことだった
今思うと私にとって夏の夜の夢のような日々であった