NEOのゆとりを楽しむ生活

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社会人駆け出しのころ(5)夜のアルバイト2

NEO


昼間の仕事をしながら、夜の店でバイトにも精を出していた私でした


しかし世界は狭いもので、会社の同僚Hさん(一つ上の先輩)が店のママ(ホステス)を知っていることが何気ない雑談で分かり驚いたことがありました
同じ県内とは言え、1時間近くも離れた場所での偶然の会話でしたから


ある時、Hさんら会社の諸先輩らが店に二次会でやってきたこともありました
バイトがバレた!と思ったかどうか記憶にありませんが、何らお咎めもなく、何とも大らかな時代でした





またあるクリスマスの時期に、昼間の会社に出入りする大手生命保険会社のお姉さんが店にやって来て、ベロベロに酔ってしまってトイレを汚してしまい、後始末をしたこともありました
(私はその店でバイトしてることを伝えていたので来てくれたのだと思います)



女性が活躍する職場というのも色々ありますね
でも、夜の店は職場でしたので、私はホステスたちを「女性」としては見ていませんでした



私の失敗談を書きます


ある時、店の同い年の女性に誘われ閉店後に近くの居酒屋に行ったことがあります


夜の仕事は深夜1時まで、それから色々と仕事の話をした後、「一緒に寝ない?」と誘われホテルに入ったのは多分3時頃、一夜を共にしました


「女性」として見てないとは書きましたが、下手に断ると「恨み」を買いかねません
仕事柄、彼女たちもストレスを溜めていたのです


しかし、普段の寝不足と疲労そして酒も加わって、起きると昼間の仕事の始業時間をとうに過ぎていました


当時は携帯電話もない時代で、私から連絡をしないと私がどこで何をしているか誰にも分かりません


私はホテルの部屋からすぐ電話をかけました


上司だった係長に「どこにいるんだ?」と聞かれ私は正直に答えました
(今考えると駆け引きのないバカ正直というか初心というか・・・)
直後に上司が電話で放った言葉「そこからなら30分で来れるだろ!」は今でも私の耳に残っています
私は急いで着替えて会社に向かったのでした



私がバイトをしていたパブは地域で数店舗を展開するチェーン店で、そのオーナー社長は何と歯科医でした
この周辺では幅を利かせたグループ店のオーナーで、視察のために店に来る姿は何度も見たことがあります


各店長は店を閉店後オーナー宛て留守番電話に、店の売上げ、戸締り、火の元点検等を入れてその日を終えるのでした


店の女の子と一夜を共にしたという話を書きましたが、店のホステスと黒服が付き合うのは原則禁止です
このときは二人の暗黙だったため後々のトラブルもなかったのかも知れません


繰り返しますがそもそも私は店の女の子を「女性」として見てませんでした


ところが、私は街歩く若い女性をよく店に連れて来たので、どう見られていたのかも分かりません


と言うのも、ある時同じグループの他の店で働く女性と仕事上の行き掛かりでたまたま会話した後で、因縁を付けられたことがあるのです
私がいたパブの店長に「部長のオンナに手を出した」などと言われてしまったのです
誰のオンナとかどうでもいいのですが、その気も全く無く、してもないことをグダグダ言われるのは極めて不快でした


アホか?お前らは


結局、私は1年ほどでその店を辞めることにしましたが、夜の世界でやっていこうなどという考えは更々なかったし、ダブルワークで体力的にもキツく感じ始めた頃だったので良いタイミングでした


夜の世界(ホステスやキャバクラ嬢のいる世界という意味)は愛憎が交錯する世界です
(昼間もそうかもしれませんが)人気商売の世界は感情の露出の仕方がえげつないと思います


ちなみに最後の月の給料は支払われませんでした(確か8万位)
これが嫉妬心に塗れた「夜の世界」の仕打ちなんでしょうかね?


そして、このグループのオーナー社長の渡〇某が淫行条例で摘発されたのはそれからわずか数年後のことでした


その後、その時の人たちとは全く縁がありませんでしたが、5、6年後飲み歩いたときに全く別の場所の店で働いていた同店の女の子と偶然会うことがありました


下記の仲人と飲み歩いた記事ですが、そのときに30キロも離れた別の町の呑み屋で偶然会ったのです(彼女は〇〇クン?久しぶり!ビックリ!などと言ってましたが、いい加減夜の世界から卒業しろよ、と今なら思う)


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社会人駆け出しのころ(4)夜のアルバイト1

NEO

若い頃、女の子のいる夜のパブでアルバイトをしていました


実は、ある理由があって昼間の仕事を終えてから夜の店に入りバイトをしていたのです


女の子が10数名いる店で、私はホール担当、料理や酒を運んだり、お客から受け取ったカラオケのリクエストカードをもとにカラオケをセットして、イントロが始まるとお客を呼び出してマイクを渡す等の仕事をしていました


カラオケは第一興商で、既にレーザーディスクを1枚1枚挿入するタイプではなく、またリモコン操作でもなく、機械本体に曲番号を入力するものだったためホール係がいると都合が良かったのです


営業は深夜1時までで、閉店後たまに店の女の子を数人乗せて自宅に送ったりすることもありました


私も22~23歳で若かったので、女の子も同い年くらいか年上の方が多く、中にはシングルマザーで生活感を隠して働く人や店長の情婦になっている女性もいました


今思えば、当時夜の店で働く女性には、どこか陰のある人が多かったと思います
仕事、結婚、受験、人間関係、何かでドロップアウトしてその屈するものを隠して夜の世界に飛び込んできた人が多かった気がするのです


ただ、夜の世界の仕事は「お金」だったり、新しい「人間関係」だったり、自己実現の手段だったのでは?


店長は夜の世界に比べると「昼間の世界はあこぎで冷たい」などと言ってましたが、しかし私は彼のポジショントークだと思っていました


時は昭和60年ころで、プラザ合意を受けての急速な円高進行により景気が悪化したと言われていますが、実際には夜の街も含めて世の中はとても元気だったと思います


店にはお客が多く来店し、時には女の子の数が足りなくなることもありました


そこで私は、店がまだヒマな開店前後の時間(確か夜7時頃)に、繁華街に繰り出しては、街歩く若い女性たちに声をかけ、口説いてお店に連れて来るのでした
そうです、私は店公認のスカウトマンだったのです


私の目的は、店の中を見せ、気に入ればホステスとして仕事をしてもらうことでした
仕事をしていた1年の間に30人位は連れて来たでしょうか
こうした声掛けは月に数回程度だったので中々見事な「面接」人数だったと思います


ただ、実際に働いてくれたのはそのうちの2~3人でした
やはり夜の仕事はハードルが高かったのでしょう


それと働いたのは家庭環境が複雑な女の子ばかりだったと思います


ちなみに、この時期のバレンタインデーで貰ったチョコレートは全部で21個で最高記録です
もちろんすべてが義理チョコでしたが・・・

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社会人駆け出しのころ(3)夜のラーメン

NEO

トヨタ系列の会社で免停となった先輩社員Hさんの代わりに外回り営業となった私は真面目に仕事をこなし会社の売り上げに貢献しました


一方、免停となった先輩社員、年は私のひとつ上でしたが、名前をHさんとします
私は、Hさんとは気が合ってよく一緒に呑みに行ったものです


自動車会社に自動車通勤していて、仕事帰りに一杯やって車で帰るのは当時は当たり前でしたが、今からすると考えられないことです


でも昔は普通にやってて、ある意味大らかな時代でした


Hさんと仕事帰りに食事をして帰る途中の国道沿いガードレールの外側に、一風変わった古ぼけた看板が立っていました


そこには「夜のラーメン」と書かれてありました


ガードレールの外側は下りの崖っぷちになっていて、背の高い雑草等が生い茂っていました
私はHさんと一緒に行ってみようという話になって、ガードレールの隙間から藪の中の細い道を下っていきました
するとそこに掘っ建て小屋が建っていて、そこから電球の薄明かりが漏れていました


私たちは恐々と近づき、引き戸の玄関に向かって「御免下さい」と声をかけました
すると奥の方から「どうぞ」という男の人の声が聞こえました


私たちは恐る恐る中へ入りましたが、狭い三畳くらいの部屋には誰もいません
またテーブルも何もなく、ただカーペットのようなものが敷いてあるだけです
薄暗い部屋の壁にラーメン一杯2,000円、ビール一本1,000円などと書かれてありました(1980年代の話です)


食事は食べたばかりだったのでビールをお願いすると、隣の部屋からボサボサの長髪男が瓶ビール一本とコップを2つ持って現れました
なんだか不潔な感じがしました


見た目は、浮浪者のような雰囲気で年齢は多分40~50歳代、よく見ると上半身は服を着てましたが、下半身は何と女性用のストッキングを履いているだけで、それ以外は身に付けていません


男はその姿で、コップを私たちの前に置きビールを注いでくれました


すると男は私たちの前で、全体的にゆっくりと、まったりとしながら、腰を動かし下腹部を強調するような動きをします
そしてストッキング越しに自身の手で自身の局部に触るしぐさを繰り返し、最後に深く吐息を漏らすとその場を離れました


私たちは唖然としながらコップのビールに口を付けましたが、入れたときにかなり泡立っていたので想像通りの生温い不味いビールでした


衝撃的なシーンを目の当たりにした私たちは、お金を払うと汚い掘っ立て小屋を出て、藪の崖を登って国道沿いに止めた車に戻りました


しばらくすると国道沿いの「夜のラーメン」という看板がなくなっていました
よく見ると藪は綺麗に除去され、掘っ建て小屋は撤去されていました
おそらく不法占有していたのでしょう

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社会人駆け出しのころ(2)敏腕営業マン

NEO

私が、トヨタ系の会社で働き始め、知識もノウハウも持たずに配属された営業所の部署で、先輩の外販ルート営業社員Hさんが免停となったことで、私が代わりに外回りをすることになったのでした


若いというのは怖いもの知らずです


更に、トヨタというネームバリューもあり、当時、顧客との間には暗黙のヒエラルキーが存在し、「殿様商売」的感覚で営業する空気があったと思います


行き先のルートは決まっていて、営業所エリア内の修理工場、板金工場、部品商、ガソリンスタンド、タクシー会社等をハイラックストラックに乗って回るのです


私には仕事をサボるという観念がなく、御用聞き営業でも真面目にこなしていました
私は客先に顔を出しては挨拶し、一声かけて在庫を確認すると置けるスペースがあればどんどん消耗品を卸して売上伝票を切っていきました


社長や注文担当者らは声をかけられると気を良くしてどんどん注文をくれました


すると、どんどん売り上げが上がって2か月連続で営業所の売上記録を更新することになりました


上司の係長も鼻が高かったと思います


ある時、上司の係長が営業所長に「こいつは仕事できますよ」と言ってるのが聞こえて、とても嬉しかったのを思い出します


時には、メーカーの担当がやって来てともに現場で売り込み、すなわち同伴営業をすることがありました


曙ブレーキ工業の担当と外回りをしたときは、途中でタイヤがパンクして、夕方の薄暗がりの中でタイヤを交換して営業所に帰ったなんてことがありました


スタンレー電気の担当と板金工場に行ってヘッドランプのバルブを売って来た時は、社内の別担当が「板金屋にバルブを売ってくるなんて凄すぎる!」とても驚いたものです
(私には驚かれる理由すら分かってませんでした)


実は、今から5年ほど前に、ある飲み屋でその板金工場の社長に会いました
私がカウンターで独り酒を呑んでいると、二つ隣の席から聞き覚えのある声が聞こえてきたのです


声をかけるとまさにご本人でした


実に35年ぶりです


ご本人はもう80歳近くのようでしたが、声やしゃべり方は全く変わっていませんでした
しかし、残念ながら私のことは覚えてはいなかったようです


というのも、その営業所で私が仕事をしたのは10か月間で、その後はトヨタ自動車と系列店が互いに出資をして新規で会社を起こし、関連部署の多くの社員が新会社へ転籍したため組織体制がガラッと変わってしまったからです


要領の悪い純な若者でしたが、目の前のことに一生懸命取り組んだ日々
たくさんの思い出が詰まっていた時期でした


(続く)

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社会人駆け出しのころ(1)入社する

NEO


昔の会社なんて、結構いい加減でマトモな社員教育は無かったし、強権発動も多かったし、人権だの個性だのそんな思想もかなり乏しかった気がする


私が、最初に勤めた会社はトヨタ系の会社で、名前だけは立派だけど社内での苛め、悪口、つるし上げ、喧嘩なんて日常茶飯事だったし、揉め事があれば遠くからディスクパットが飛んで来るなんてこともありました


今じゃ考えられません・・・よく言えば人間臭いとでも言えましょうが


ただ、社内ではデール・カーネギーの「人を動かす」を読むことを推奨され、キリスト教徒のカウンセラーの方までいたので、社員の底上げをしたりフォローしたりのムードは備わっていたんだと思います


私はキリスト教徒ではなかったけど、読書家で新約聖書は5、6回も読んでいたので、このカウンセラーの方とは打ち解けて自宅に食事に招かれた記憶があります


そう言えば、駅前のSDA英語学校(今は廃校)という英会話の学校を紹介してくれたのもこのカウンセラーでした


私は新卒入社ではなく中途入社でした
わずか1週間の社内研修を終えて地方の営業所に配属されました


先輩営業社員に付いて同行訪問する毎日でしたが、気に入らないことがあると怒鳴られるし、給料は貰ってましたがやっていることは部活の延長みたいなものでした


ところが数か月すると、たまたま来てた役員が私を本社勤務にするよう指示
決して栄転などではなく、しかしその後の社員人生を方向付ける人事となってしまいました


しばらく本社で働くと今度は別の営業所への転勤命令
入社後1年もしないうちに3回目の転属


まるで犬猫のように転がされて居場所が変わりましたが、当時はそれが当たり前のような雰囲気、社員個人が人事に口を出すなどあり得ず言われるままに異動しました


自動車関連とは言え、特に車が好きというわけでもなく、メカニックの知識もなく、部品部というマイナーな部署の内勤として勤しんでいました


当時はトヨタ自動車がソアラを発売してまだ数年の時期で、社内のクルマニアは給料のほとんどを車につぎ込み、代わりに貧乏生活を受け入れている、そんな人もいました


異動になった営業所の部内には、2人の外販営業がいて、それぞれが別のエリアを担当しルート営業をしていました


直属の上司は10歳年上の係長で、この人がキックボクシングの新人王になった人で、当時仕事のできない私を辛抱強く使ってくれたものです
この人とは今でも年賀状のやり取りをしています


ある時、外販営業のひとりが免停となり、私が代わりに外回りをすることになりました
相変わらず車の細かい部品のことなど知らなかったのに、周辺の修理工場、板金工場、部品商、ガソリンスタンド、タクシー会社等の担当になったのです


私は言われるままに、外回りの営業になったのです


(続く)

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