NEOのゆとりを楽しむ生活

株式投資、英語学習、グルメ、旅行、愛犬とのシニア生活

母の介護生活(2)認知症

母の介護認定を再申請したのは2021年春のことだ
これより何年も前に認知症が進んで料理も出来なくなっていたので、近所の方の計らいで介護認定を取得していたことがあった


しかし、両親は介護制度等に疎く、ただ取得しただけであとはほったらかしだったので何年も前にとっくに更新もされずに切れていた
また認知症というだけで足腰はしっかりしていたので介護を受けるという考えに至らなかったのだろう


介護認定を受ければグループホームを利用するという選択肢もあるが、実父がかなりしっかりしていたし、問題行動も無かったので介護という発想が無かったのだ


実際に私が様子見に行ったときでもちゃんとした会話は出来ていたし、犬の散歩もしていた
ただ短期記憶はかなり危ういな、という印象だった


私は手作りで名札をたくさん作り外出の際は必ず首から下げるように繰り返し伝えたが、もちろんそんなことには見向きもしてくれず、いつの間にか引き出しの中にしまわれてしまっていた


また夕闇の中での犬の散歩は危ないからと携帯ライトや犬輪からぶら下げるLEDライトを買ってきて渡しても使ってもくれない


父が言うには、犬がいるから自宅に戻ってこれるのだと
また、近所に事情を知っている人たちがいるから、どこにいたという情報も時に入ってくるのだと言っていた


また1週間も10日も風呂に入らない(オムツを履いていた)
父が風呂に入れというと喧嘩になる、私が言えば素直に聞くがちゃんと風呂に入るとは限らない


その時は分かっても後まで言葉が残らないのだ


そうした状況を見て、介護制度をうまく利用できないかと考え、地域包括センターに連絡を入れケアマネージャーを紹介してもらったのが2021年4月のことで、その後、母は要介護2と認定された


この頃(2021年春)私はまだ働いていたが、様子伺いや医療、介護の種々手続き等に翻弄されていくことになった
介護と言っても一律ではなく、本人にとって一番いい形を考えてあげたかった


私の妻も契約社員で働いていたけれど協力を得ながら病院への送り迎えをしてもらった
最初のコロナワクチンの予約のために病院の正面玄関前に私が朝の4時から並んだのもこの頃だ
6時頃に妻が車で愛犬エルを連れて弁当を持参してくれた


2021年9月に母の愛犬ルビーが亡くなる(享年24)
このとき母の精神状態が愛犬の死亡で不安定になるのではと危惧したが意外と大丈夫だった(意外と冷静なんだね?)


ペットセレモニーに連絡し数日後火葬のうえ自宅に持ち帰り位牌も作って供養した

愛犬亡き後、母の認知症が進行するのではと考えた私はケアマネさんにデイサービスをお願いした
初めは嫌がっても行ってみると楽しくなる高齢者がいることを私は知っていたのでそれを期待したのだが、母は最後まで乗り気でなかったようだ


ある朝、デイサービスの方が自宅に迎えに来ると母の姿がない、父も気付かないうちに母が家を出て行方不明になってしまったのだ


当時私の職場は親の実家から車で15分程度のところだったので、連絡を受けすぐ駆けつけ30分くらい探して住宅街を歩いているのを見つけて保護、そのままデイサービスに行ってもらった


また、こじんまりとした一軒家のデイサービス施設に入っても自分が何故ここに来てるのか分からなくなるようだった
2021年11月に、今度は施設を抜け出し近所を徘徊、住人に通報され警察署に保護され、連絡を受けた私が迎えに行ったこともあった
(連絡先として私の名前と携帯番号が登録済みになっていた)


母はこうした問題行動を起こしながらも、性格的には穏やかで他人と喧嘩したり攻撃したりすることは一切なかった
そういう意味で私のストレスになることはなかったが、いつ何時何があるか分からないという緊張感はあった


そして、私の兄(長男で勝手に同居している)、その兄の嫁、そしてその二人の息子たち(私からすると甥)が高齢の親(祖父母)に対して面倒を見るどころか、気にする素振りは全くなかった




(続く)

2023年9月末の資産状況

今日10月4日は投資の日なのでそれにふさわしい話題を書くことにする


今後の市場の動向(予想)も少しは書くが、職業アナリストではないあくまで私の目線であることに留意願いたい


そもそも市場動向などは後講釈でいくらでも説明が可能だが、それを事前に言い当てるのは不可能であり、それを期待する心理が大きいとついつい詐欺師が繁殖する原因となる
(人間の本性は「弱」である・・・性弱説


未来の株価年表があれば私も欲しい


まずは具体的な資産額を公表するか検討したが当面見送ることにした
株クラ民やFIRE(検討)民にとって関心が高いテーマだが、他人と比較しない生き方も大切なことである
増して、数字を比較しても参考にはなっても幸せになれるとは限らないのだ


よって、参考程度に記載したい


23年9月の金融資産は快進撃を続けた
米国株、日本株は再度上値を追い、為替は円安だから、国際分散のインデックスファンドは上昇し、バリュー株メインの日本株も上昇した


9月中旬には、私のポートフォーリオ(金融資産)は過去最大を記録したが、その後の株式市場の失速により、ピークから800万円程度減少したところで月末を迎えた


前月(8月末)比 +149万円


9月は21万円の配当所得があったが、収支は28万円のマイナス
外食が多いし、屋内リフォームの残金を払ったのも要因


趣味の食べ歩き(飲食店開拓)でお金を散財しているのも、当面長期の旅行に行けないためだし、日常使いのお金より株式や為替の変動による金融資産の変動の方が圧倒的に大きいので、特別大きな買い物をしたり不相応な贅沢をしなければ良いかなと


10月に入り日本株はさらに下げ金融資産はどんどん減っているが、本来8月から9月にかけて大きな調整もなくここまで来たので、年末にかけて調整が入るだろう


しかし危ぶむなかれ、来年央に日本の株はバブル高値を更新すると見る
(リスクイヤーは2025年か?)


またブログ等SNSを通じて暴落論を唱える連中は今も昔も変わらずいるが、いつ暴落するかなんて分かるはずがない


こうした連中は、実際には儲けるためのポジショントークが多いし、「ほら、言った通りになったでしょ?」と言いたいただの承認欲求おじさんである場合が多い


貯蓄から投資へと言われて久しいが、インフレの足音がしてきた日本ではますます投資の必要性が高まってきている
特に若い人は目先の上げ下げに一喜一憂せず長期投資の旅に出ることをお勧めする

私の兄(1)身勝手な男

私は年子の二人兄弟の弟である
兄弟仲はあまり良くなく会話はほぼない


兄は大学を出て着物関連の会社(斜陽産業)に就職して全国を転勤で過ごした
30歳くらいで今の奥さんと結婚して2人の息子持ち(2人とも社会人)


あるとき兄は東京の会社に通うに当たり、単身で両親の実家に移り住み、私が独身時代に使っていた部屋に住み付いた(しかもタダで)


この家は私が少年時代に過ごした公営住宅ではなく、私が24歳のときに親と私が移り住んだ一戸建ての家だ
当時定年近い父が家を買うのに単独では住宅ローンを組めず、私と共有名義にして親子2世代ローンで買ったものだ
(私は24歳になって初めて自分の部屋が持てた)


結局、私は28歳で結婚するまで約4年この家に住んだのだが、私が出て行ったあとはこの家には両親だけで(飼い犬はいた)住んでいた


それが今から10数年前の2010年に兄(当時50歳くらい)が何故かひとりでその親元実家に移り住んできたのだ
都内に通うのに丁度よく、実家だから家賃を払わずに済む(←いや、絶対違うだろ!)とでも思ったのだ(何て甘ったれた根性だ


私が結婚前に住んでた頃の4年間は20代半ばの激務の時期(バブルに向かう真っ最中)で、月の手取りがせいぜい15万もあるかないかくらいの薄給だったが、それでも私は毎月5万円を実家に入れていた(母に手渡していた)


ところが50にもなる私の実兄は親元実家の一室に勝手に上がり込み、金を払わず、トイレや風呂やエアコン、電気や水道も使い放題、そのくせ両親を病院に連れて行くことも相談に乗ることも世話などする気は一切なく、私が使っていた部屋の私が使っていたベッド(20代の薄給なのに7万以上もした!)を使って、結局12年も住み付くことになったのだ


金も出さず、汗もかかず、気も使わずに!


もちろん一戸建て特有の近所づきあいなどするはずもない


初めの頃、私も「どうせ空いてる部屋だし、節約もできるだろうし、両親の近くにいれば何かの役には立つだろう」などと軽く考えていたのだった


ところが何年か見てると、どうも変だ


私も盆や正月に実家に行くときは手土産のひとつも買ったりするが、住まわせてもらっている兄本人が100円の金すら使っている様子を見たことがない
(兄嫁は盆や正月に来たときは菓子や近所で買った寿司などを持参していた)


盆や正月に皆が集まると、兄は実家が用意したもの、嫁が買ってきたもの、私が買ってきたものを普通に食うだけは食うのだった


他人に金を出させ、他人に汗をかかせ、気も使わずに平然と食ったり酒を飲んだりって
アンタ何様?


母が認知症になってからは、私は毎週仕事帰りに立ち寄ったものだ
途中のコンビニで甘いお菓子(母は甘党)や食料品、花、マスク不足時にはマスクなど持って行ったが、甘いお菓子を持参した時など母が「〇〇が帰ってきたら盗られちゃうから隠すんだ」といって戸棚にしまうこともあった


(続く)

秋の温泉旅行に行く(川治温泉)

週末に鬼怒川の北にある川治温泉に行った
鬼怒川は何度も行ったことがあるが、湯西川と鬼怒川の中間に位置する川治温泉は初めてだ


うちには愛犬エルがいるのでどうしても犬を中心に考えることになる
ペット可のところで、できれば朝夜温泉(できれば大浴場)に入れるところを探していたところ見つかったのが川治温泉にあるホテルだったのだ


出発の前々日にスケジュールを作成し(これは私のいつもの務め)、時間に無駄なくしかし無理せず悠々と動いて現地を堪能するのが私のやり方


もちろんエルちゃんの大好きな散歩コースも忘れない


朝、5:30に家を出て即高速に乗り、外環道を経て東北道へ入り、最初のサービスエリア蓮田で朝食とエルの散歩


予定よりも早く到着してまずは30年ぶりの東武ワールドスクエアへ
都内の小学生らが英語での案内をするフィールドワークを実践中
私も協力して英語で話しかける


昼食は龍王峡のイワナ定食(妻はゆば定食)
そこからアップダウンの山道をエルちゃんとともに歩く
サスペンスドラマに出て来るような絶景でした


道の駅、湯西川の平家の里(落ち武者に興味はないが)に立ち寄った後ホテルへ


激安ホテルを選んだけど、実際はなかなか良かった
温泉も最高!

朝は5:30からホテル周辺をエルと散歩


そしてバイキング形式の朝食


二日目のスタートは瀬戸合峡を散策
吊り橋から見る景色が良かった


地元の名所をいくつか周り、昼食は十割蕎麦の大黒庵さんへ
驚きのボリュームの天ぷらが出てきて大満足


そして帰路へ


金曜日は株式市場を見てなかったけど、週明けマネーフォワードでチェックしたら結構減ってたね・・・

母の介護生活(1)三重苦

私自身は2021年末に59歳1か月でFIREしたのである程度の時間の融通が利く
とは言え、老犬の朝夕の散歩とその後の手入れ、日中は市場のチェックと英語学習、週末にはひとりで住む実父の家に様子伺いに行っているので意外と忙しいのだ


昨年末には実母が亡くなった


ここ数年間、母はアルツハイマー系の認知症を患い、家事も家計も料理すらできなくなっていた
そのため数年前からちょくちょく様子を見に行っていたのだ


2か月に一度認知症専門医に連れて行き薬を処方してもらい、後期高齢の定期健診に連れて行ったり、イベントごとに食事や旅行に連れ出した


コロナワクチンの最初の接種予約の時は、早朝4時に病院の正面玄関まで行き、並んで受付してもらったりもした


親が可愛がって世話をしていた超高齢犬(雑種、享年24)が21年9月に亡くなると、変化のない閉塞的な生活だと認知症も進行しやすいだろうと、近くのデイサービスを週一で依頼
(こじんまりとした一戸建ての民家でのデイサービスだった)


ある時、そこを抜け出して近所を徘徊し警察に保護され、警察署まで迎えに行ったことがある
(自分がそこにいる環境があまり理解できてなかったのか?)


警察署から私の携帯に電話がありすぐ迎えに向かったのだが、「なぜちゃんと見ててくれなかったのか」と施設責任者を責めたりもしたが、振り返れば少人数で頑張ってくれてたと思う
その後、母が脳梗塞で入院生活に入り、改めてデイサービスの施設に挨拶に訪れ、短い間の御礼を申し上げた


21年12月に母は脳梗塞で倒れ深夜に緊急手術をしてから半身不随となり、また大腸機能障害も併発して、数か月の入院生活を経て昨年5月に特養へ入所となった


22年9月に2度目の脳梗塞手術
同年11月には大腸機能障害で再入院
同年12月にストーマ(人工肛門)手術
この頃には認知症もありコミュニケーションはほぼ難しくなっていた


最後の手術が負担だったのか術後数日して体調が急変、帰らぬ人となった(享年86)


昨年の1年間は、病院、特養の手続き等すべて私がおこなったが、中にはすぐに判断や対応しなければならないこともあり、常に気がかりな状況だった


他方、老齢の実父は健康とは言え90代、自宅内で体調を崩しているところを近所の人(朝のラジオ体操仲間で体操に来なかったので声をかけてみたとのこと)に発見され救急車を呼んだからと電話が来て慌てて向かったことも(幸い大事にはならなかった)


私の家と父の住む実家は車で30分程度


もし、私が働いていたらこれらのことに対応できなかったと思う


ところで、この父母の実家につい最近まで12年も住んでいた1歳上の実兄がいたのだが、まるで何もしない人間で、10年も前に母がある事件に巻き込まれて一か月以上の入院生活を余儀なくされたときも他人事で見て見ぬふりを貫き通したのだが、まさに金も払わず、汗もかかず、気も使わずで居候以下のダメ人間なのだ


母が脳梗塞で最初の入院をしたときに、この実兄(実は妻と子2人がいるが別居)を私が実家から追い出してやった


1年後の母の葬儀(22年12月)には姿も現さなかった


この件については改めて書くつもりだ